「草野球の窓」

1945年
『軟式野球の復興』
 1945年(昭和20年)8月、ついに終戦を迎えました。それと同時に忍耐を重ねてきた軟式野球愛好家たちが全国各地で軟式野球の復興に立ち上がります。同年10月、かつての東京都軟式野球連盟の役員たちが都連盟の再建と同時に全日本軟式野球連盟規約の草案をまとめ、創立準備委員会を発足させました。このとき集まった役員は、佐藤嘉一郎、吉田 実、大館治兵衛、船津國夫、稲垣 武の5人でした。都内ではどこに泊まっても食べ物がないため、疎開先(埼玉県所沢市)で農業をしていた前役員の大館氏宅に泊まり込んで創案を作ったといいます。創立準備委員会の仮事務所は、東京都杉並区の吉田氏宅に設けられました。
 かつて大日本少年野球協会が設立された地である神戸でも、同年11月には別個に発起人が集い再建を模索していたそうです。

 しかし終戦の混乱の中にあって、その他の府県の野球事情はまったく不明でした。よって翌21年に当時日本体育協会理事長であった清瀬三郎氏 の協力の下で全国組織結成の足がかりを構築していきました。実際には、船津氏と佐藤氏がリュックサックに食糧を詰め込み、清瀬氏の紹介状を持って各府県を回ったようです。終戦直後の食糧難の時期、この行脚は大変過酷なものであったと思われます。

 清瀬氏は、当時非常にマルチな活躍をされた方で、東京大学卒業後、弁護士として活動した後、昭和17年に日本ラグビー協会理事、昭和21年 日本体育協会理事長、昭和23年 初代国家公安委員、昭和24年には日本卓球協会の会長も務めています。


 準備委員会のもう一つの仕事は、軟式ボールの製造許可の取り付けでした。当時統制物資であった天然ゴムの軟式ボール製造への割当を軍需省(現在の経産省)に何度も陳情しました。「戦争ですさみ切った世相に必要なのはスポーツであり、青少年層に最も深く浸透しているスポーツは軟式野球である」というのが軍需省への説明の骨子だったそうです。このとき、厚生省の栗本義彦体育官(後の日本体育大学学長)も同行していました。そしてついに割当の同意を取り付けました。ただし、「1トン当たり1,650ダース製造すること」という条件付きでした。当時はまだボールの規格が定まっていませんでしたが、仮に現在のA球の規格で計算すると、天然ゴム1トンから製造できるのは613ダースに過ぎません。それよりも約1,000ダース多く製造することを条件にされたわけです。しかし、当時のボールメーカーは需要を満たすため、1トンから1,700〜2,000ダース製造したようです。このため戦後の軟式ボールは今と比べてはるかに耐久性は劣りました。しかしそれでも里芋の茎でクルグル巻きにして布で包んだ手製のボールとは段違いの性能で、多くの少年たちの野球心をかき立てるには十分でした。

 この軟式ボール製造再開にあたって、長瀬ゴム株式会社(現・ナガセケンコー株式会社)の初代社長、長瀬泰吉氏の功労は大きなものがありました。長瀬氏は昭和18年10月に軟式ボールの製造が禁止され、ほとんどの工場が軍需品製造に転向した際でも、ボール製造の設備をそのまま保存して工場を閉鎖しました。このことが製造許可後、いち早く世に軟式ボールを供給することができた大きな要因となったのです。

 1943年に統合されて日本軟式野球ボール製造株式会社1社のみとなっていたボールメーカーは、終戦後、1946年には13社に、その翌年には22社に急増していきました。



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